新緑まぶしい5月となりました。
(前回の投稿がいつだったのか、考えないことにします(;^ω^))
先日、義母と夫と3人で、ウォーキング兼ねて、
義母宅の近くの広大な公園に行きました。
この公園には、桜、松、ポプラ・・・等々、様々な種類の木々がたくさん、植樹されていて、今の時期は、文字通り<新緑眩しく>、歩いているだけで、
マイナスイオン全開!
心身ともにリラックス!
幸せな気持ちになりました。
こんな時、義母は、何気なく歩いているようで、
実は、<不可視の創作アンテナ>を張りめぐらしています。
俳句をひねり出すため・・・です。
義母曰く、短歌の長さ(31字)だと、
(作者の)感情が露呈し過ぎるからイヤなんだそうです。
一方、俳句は短く(17字)、
作者の感情が見えるような、見えないような、
ほんのり漂わせることができるから、(義母にとっては)、
しっくりくるんだそうです。
義母の俳句歴は、結構、長い上、
元々、繊細な感性と鋭利な言葉のセンスがあるので、
しばしば、俳句の同人誌などで入選するほど・・・。
・・・ところで、明治期のポルトガル人外交官、
ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、当時、在日中の多くの外国人たちが「(欧米と比べて)日本人には個人性がない」との日本人論を展開していた中で、
この【俳句】を根拠にして、
「いや、日本人に個人性がないとうことはない、ただその出し方が欧米とは違うだけだ」
と主張したそうです。
この点に関して、モラエスの展開した論は、以下の通り。
・俳句に込められるのは、個人の感性、感情だ。
たとえば花が美しいと思った個人の感性を、四季を織り込みながら十七文字で表現したいと思う。そんな洗練された文化を醸成してきた日本人に、個人性がないわけがない。
・個人を他者と調和させることにこれだけ長けた国民はない
つまり、<関係性の中で個人を表現していくこと>にかけて、
日本人は非常に巧みだ、それが欧米とは違う点だ。
と主張したわけです。
【出典】木村治美「私らしい''自律’’ 妻らしく、母らしく、女らしく」、月刊MOKU、2009年5月号
上記の話を展開した、エッセイストの木村治美氏は、さらに、以下のように結論づけます。
↓
「神という峻厳な存在と一対一で向かい合う、それが欧米の「個」ですが、
変化を続ける関係性の中にあって、周囲と調和しながらも自らも変化し続けているのが日本の「個」の姿です。
[・・・]しかし周囲と調和しながらも、そこにいたずらに巻き込まれない「自分」を育てていかなければならないわけですから、欧米とはまた別の厳しさ、難しさがありますね」
【出典】同上
・・・上記を、私なりに簡潔に整理してみました。
↓
・欧米の「個」は、神という存在と一対一で向き合う、
<垂直軸の関係性>の中で育まれた「個」
・日本は、周囲と調和しつつ、自らも変化し続ける、
<水平軸の関係性>の中で育まれた「個」
うーむ・・・
私からすると、垂直軸の関係性のみで育む「個」も、水平軸の関係性だけで育む「個」も、いずれも苦しくなって限界を感じそうな気がするのですが、
皆さん、いかが思われますか?(^^)
・・・牧師先生は、
「神様が天地万物を創造し、私たちを創造なさったのは、私たちを愛するからです」
「みんな、その「万物」を見て、神様の愛を分かって感じ、生活の中でも「万物」を見て、神様が語られ、共になさるということを分かって生きなければなりません」
と教えてくださいました。
<個人を他者と調和させることにこれだけ長けた国民はない>とモラエスをして言わしめた日本人が、天地万物を創造なさった神様を認めて、
<万物を見て神様の愛を感じて生きる>なら・・・
つまり、
<垂直軸>の関係性(神様と向き合う)
✖
<水平軸>の関係性(周囲との調和)
いずれも大切にして生きるなら、それこそ、
今までの俳句概念を突き破るような、
スペシャル級の俳句作品が、
次々に生み出されるのではないでしょうか・・・。
(いや、俳句に限らず、様々な文化・芸術面において、大転換が起こる???)
最後に、<万物を創造なさった神様>に関して、牧師先生が
教えてくださった聖句2つを挙げて、しめくくりたいと思います。
◆ローマ人への手紙1:20
「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」
◆ 詩篇19:1~4
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、
大空はみ手のわざをしめす。
この日は言葉をかの日につたえ、
この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、
その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、
その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神は日のために幕屋を天に設けられた」